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学校紹介

2013年10月15日(火曜日)

森盲天外物語1

カテゴリー: - hp-admin @ 16時54分24秒

連載開始 森盲天外 (森恒太郎)物語第1回

 −少年期編−

 

 校庭の南側に一粒米の碑がある。そこに書かれている「一粒米の精神」、

本校が一番大切にしている心である。

ところが、その「一粒米の精神」を残した森盲天外(森恒太郎)さんのことを

知らない余土の人々が増えていると聞きます。

今、4年生が森盲天外さんのことについて学習を進めています。

そこで、森盲天外物語を連載(記事が少ない時に載せます)し、余土小の保護者の皆さんや

地域の方に森盲天外さんのことを知っていただこうと思います。

まず、少年期について連載していきます。

 参考文献  愛媛県教育会発行 「愛媛子どものための伝記 第三巻」

余土小学校発行 「わたしたちの余土」

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 校庭の南側にある「一粒米の碑」の碑文、読まれたことありますか。

左の「学校紹介」の「一粒米の碑文」のところをクリックしてみてください。

 

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 温泉郡余土村(現在の松山市)に森盲天外という村長が

いました。この人は、目が見えませんでしたが、余土村を

他の村や町のお手本になるようなりっぱな村にしました。

余土公民館には、森盲天外が村づくりにつくされた

記念の品が大切に保存されています。

 本名は、森恒太郎といい「天外」というのは、俳句の先生

だった正岡子規につけてもらった号です。後に、目が見え

なくなってから自分で「天外」と呼んだのです。

「盲」は目が見えないという意味です。

 では、森恒太郎さんは、どんな少年だったのでしょう。

 少年期編 

−森恒太郎(森盲天外)生まれる−

 

 森恒太郎さんの父親は、謙蔵さんです。西余土村のしょう屋でした。

お母さんはクラさんと言って松山藩の武士の家に生まれた人でした。

恒太郎は、1864年8月13日に森家の長男として生まれました。

恒太郎が生まれた年、父謙蔵は温泉郡にあった34の村の中で

3人いた大じよう屋の一人に選ばれました。

 そのため、恒太郎は3ヶ月で、何と西余土村のしょう屋になりました。

生まれたばかりの赤ん坊が名前だけのしょう屋になったのです。

実際には、村の大事な仕事は、全て父が代わってしていました。

 ところが、6才になった1870年(明治3年)に

父謙蔵が39才の若さでなくなったのです。

母のクラは32才、恒太郎をかかえて、どうしてよいか大変こまりました。


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