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学校紹介

2014年3月19日(水曜日)

森盲天外物語17

カテゴリー: - hp-admin @ 13時51分03秒

森盲天外物語17

− 村人と共に −

 森盲天外の家族は松山市に住んでいました。

それで、家族と離れて役場の近くに家を借りてくらすことになりました。

盲人でご飯炊きから家の掃除、洗濯、寝床をしいたり片付けたりすることは、

大変な苦労でした。

しかし、村長とし働くためには、村に住み込んで村人といっしょに暮らしていこうと考えたのです。

この村長の暮らしぶりを見て、村の人々は「村長さんは村の人々のために、

がんばってくれている。ありがたいことだ。」と、いつの間にか村人の気持ちと

一つになって、村を良くするために進むようになっていきました。

目の不自由な村長の家に、村の人々からご飯のおかずがとどけられたり、

節句や祭にはもちやごちそうが送られたりしました。

病気になると、看病にも来てくれました。また、時には家族の中が悪くて困っている家から

相談をもちかけられ、その家へ出かけて行って、

仲良くなるように話をしてあげたこともありました。

村の家で困っていることがあれば、杖をつきながら一けん一けん訪ねて行って、

親切に解決してあげました。

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参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行

我が村(青潮社出版部発行)  一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

 

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2014年2月28日(金曜日)

森盲天外物語16 中休みの運動場

カテゴリー: - hp-admin @ 09時33分18秒

森盲天外物語16

−余土村長に−

 明治31年、彼は比叡の山を下りて、松山に移り住んでいる家族の所へ帰りました。

余土村の村会議員が大勢訪ねてきました。

「ぜひとも、余土村の村長になって、村を治めてください。

こうやって、村人を代表して、お願いに来たのです。

「わたしは、ご承知のように目が見えないので、文字も読めません。

せっかくだがお引き受けできません。」

「役場の書類などのことは助役がやります。指図をしてくればよいのです。

ぜひ、あなたのすぐれたお考えを出して、村を治めてほしいのです。」

余土村を思う心の強い盲天外は、村人の心に打たれ、

とうとう村長を引き受けることになりました。

余土村ではさっそく村会を開き、全員が森恒太郎の村長当選を決めました。

そして、村長当選を認めてもらう書類を県庁に差し出しました。

ところが、県庁では、目の見えない人が村長になるのは無理だろうと反対しました。

そのことを聞いた恒太郎は、県庁に行って知事に会い、

「目の見えない私が村長になることを認められないということは、

私一人のことではありません。

全国にたくさんいる目の不自由な人たちは、村や町の仕事にはつけないことになり、

人としての権利をなくすことになります。

また、私の余土村では小学校を立てる場所のことでもめています。

私は、村人からぜひこのもめ事を収めて欲しいと頼まれています。

このもめ事を収め、立派な余土村をつくる覚悟です。」

と強い決意を話しました。

知事はこの話に心を強く打たれました。

それから2日後に、村長に認めるという書類が余土村の役場に届きました。

 ここに初めて日本でただ一人の盲人村長ができたのです。

明治31年(1898)3月25日、

恒太郎34歳の時でした。これから10年間、

村づくりのためにすばらしい働きをしたのです。

参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 
         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)

 

 

 

中休みの運動場

− 気温が上がり春らしくなってきました、

外で遊ぶ子も増えてきました −

 2/21中休みの運動場の様子です。

縄跳びをしている子がたくさんいます。

ドッジボールをしている子もいます。

滑り台は低学年の子どもたちに大人気です。

おにごっこやけいどろなどもよくしています。

写真をつないで作りました。

 

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2014年2月12日(水曜日)

森盲天外物語15

カテゴリー: - hp-admin @ 15時04分46秒

森盲天外15

− 郷里から房五郎がやってくる −

 

修行の毎日を送っている盲天外の所へ、郷里の余土村から、

少年のころからの友達である鶴本房五郎がはるばる訪ねて来ました。

「ごめんください、恒さんおるかな。余戸の房五郎じやが。」

「おお、房さんかい。よう訪ねて来てくれたのう。

まあ、むさくるしい所じゃが、お上がり。」

「長いことご無沙汰していたが、元気そうで安心した。

今日訪ねて来たのはお願いがあって来たんよ。」

「この頃は気持ちも落ちついて、目が見えないのにも慣れたよ。

さて、このわしにお願いとはいったい何のことかいなあ。」

「余土村では村長の松田久次郎さんが

8年間つとめて、近くやめることになった。

そこで、あんたに村長を引き受けてもらいたいのじゃ。

今、村では小学校を新しく建てることを村会で決めたが、

建てる場所のことでもめている。どうしても、

君が村長になって、このむつかしい問題をおさめてもらたいのじゃ。」

「目の見えないわしに、とてもそんな大役はつとまらん。

せっかくじゃが、引き受けることはできんわい。」

はるばる訪ねて来てくれた友達のたのみを、

すぐには受け入れることができませんでした。

山を下りていく房五郎にはすまない気持ちで、

見えぬ目でじっと見送ったのでした。

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参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 
         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2014年1月23日(木曜日)

森盲天外物語14

カテゴリー: - hp-admin @ 09時24分55秒

森盲天外物語14

− 心を鍛える修行 −

京都に行って新しい生活を始めました。

京都の北東にある比叡山のお堂で修行をしました。

一生懸命心をきたえ、

りっぱな人になる修行の毎日が続きました。

 

この盲天外の態度は、若い人の心を打ちました。

教えを受けたいと7人の若者がやってきました。

盲天外は、若者といっしょに暮らすことにしました。

しかし、若者たちを養うということは大変なことでした。

そこで、あんまをすることにしました。

 

夜になると、京都の町を杖に頼りながら、

あんまの笛をふき、あんまをして歩きました。

 

 ある夜、一軒の家に呼ばれました。

主人の体をもみながら、あれこれ話しているうちに、

主人が起き上がり、盲天外の顔をじっと見つめました。

「あなたは、町であんまをする人ではない、

他にすることがあるお方だ。」と、

盲天外の手にしっかりと5円札

(そのころ米一升が10銭、1円は100銭)を握らせました。

そして、羽織を出して盲天外の肩に後ろから着せ、

送り出しました。

どんなにうれしかったことでしょう。

 

盲天外は、後々までその時にもらった羽織を

宝物のように大切にしました。

自分の子どもたちにこの時のことを聴かせたそうです。

 

 修行を毎日送っている盲天外の所に、

郷里の余土村から、少年の頃からの友達である

鶴本房五郎がはるばる訪ねてきました。

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参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 
         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2013年12月24日(火曜日)

森盲天外物語13

カテゴリー: - hp-admin @ 11時03分32秒

 

 

森盲天外物語13

− 一粒の米 −

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母の作ってくれた食事も食べる気がしない。

食べぬのは申し訳がない。

そんな気持ちで暮らしていたある日、食事をしていた時のことでした。

膝の上にこぼれた一粒の米に、何気なく指先がさわったのです。

 

「ああ、そうだった。」と、

自分の心に強く感じるものがありました。

 

それは、

「一粒のこの米は植物の実に過ぎないが、

一度人の口に入ると消化されて、

人の大切な力となる。

 

それは少し前までのただの植物ではなくなっている。

人間の大切な営みを生み出す元になっている。

何とすごい変わりようではないか。

 

一粒の米が人の口に入るまでには、

お百姓さんのたくさんの苦労がある。

 

その一粒の米は、きっとこんなことを言っているのではないか。

 

『わたしはただの植物の実で終わることなく、

人間のために目的を遂げねばならぬ。

たとえ、どんなに苦しくても(熱湯で煮られること)、

がまんして御飯となって、人の口に入り、

歯でかみ砕かれ、おなかで消化され人間の力となりたい』と。

 

一粒の米にも何と大きな望みがあるではないか。」

ということだった。

 

恒太郎は、「目が見えなくなったぐらいで、望みを失い悲しい毎日を

送ったのではいけない。そんな弱虫ではいけない。

一粒の米にはずかしいことだ。」と、

元気を取り戻しました。そして、

 

「世のため、人のために働かねばならん。」と

勇気づけられました。

そこで、心の強い立派な人になる修行をしようと思い立ちました。

京都に行って、新しい生活を始めました。

 

参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 
         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2013年12月16日(月曜日)

森盲天外物語12

カテゴリー: - hp-admin @ 11時38分57秒

 

森盲天外物語12

−両目が見えなくなる−

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なつかしいわが家に帰り着きました。

恒太郎の目が不自由であることが、みなに分かりました。

家の内は、しだいに悲しい気持ちに包まれました。

恒太郎は、母に、

「お母さん、目の病気を治し、元の元気な体に戻りたい。

もう一度、東京に行ってきます。

一日も早く東京に行き、

河本博士に治療してもらわなくてはなりません。

目が見えるようになるまでがんばります。

わたしがいなくてお困りでしょうが、後のことはお願いします。」

恒太郎の母は、

「もしも目が見えなくなっても、望みをなくしてはなりませんよ。」と

恒太郎を送り出しました。

 

明治29年(1896年)の秋、河本先生の治療で、

右の目は回復が見られました。

顔、模様、景色などがぼんやりと見え始めました。

 

しかし、喜んだのもつかの間でした。

とうとう、博士から、

「もうこれ以上入院しても手当のしようがありません。

郷里に帰って静かに静養するしかありません。」

と、気の毒そうに言われてしまいました。

 

とうとう望みはたたれ、

盲目になることを言い渡されたのです。

3年あまりの治療もついにだめになり、

32才の秋、悲しい気持ちで、

恒太郎は郷里の余土村に帰ってきました。

 

森家の財産も政治や病気の治療のために、

大部分を使ってしまいました。

人に貸していた四たんの田と

家しか残っていませんでした。

 

恒太郎は、毎日悲しい気持ちで、

どうすることもできない自分を

なさけなく思っていました。

望みを失った日々でした。

 

参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 
       我が村(青潮社出版部発行) 
         一粒米(青葉図書発行)
       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)
挿絵:出典
 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2013年12月9日(月曜日)

森盲天外物語11

カテゴリー: - hp-admin @ 12時39分02秒

連載

森盲天外物語11

− 郷里(余土)のみんなに会いたい−

去年の9月に入院してから、
もう桜の季節になっていました。
河本博士を中心に、懸命の手当がなされましたが、
左の目の回復は望めなくなっていました。
その頃から、恒太郎は、郷里の母や子どもたちに会いたい、
目が見える内にみんなの顔を見ておきたい、
会って話がしたいと思うようになりました。
母に、帰ると手紙を書いて、妻と二人で東京の町に出て、
二人の子どもや母におみやげを買いました。
入院してから、初めて楽しい一日でした。
河本博士に1ヶ月ほどしたら病院に帰ってくることを告げると、
十分に注意するようにしてくださいと
一時退院の許可を出してくださいました。
しかし、右目にも症状が出ているので、
体を安静にするように言われました。
久しぶりに郷里に帰れると喜んでいた気持ちが
いっぺんに吹き飛んでしまいました。
よく朝、恒太郎が郷里に帰ることを知った友達が、
たずねてきました。話している内に右の目がいつもとちがうのを
感じ始めました。友人の顔が曲がって見えるのです。
恒太郎は、友達が帰るのを伸ばしたらどうだろうと、
心配してくれているので、悩みましたが、帰ることに決めました。

 

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新橋駅から汽車に乗り、よく朝、京都駅で下車しました。
京都で開かれていた第4回内国勧業博覧会を見学しました。
日本の産業について様々な日本の産物が展示されていたからです。
今見ておかないと、いつの日にまた見ることができようかと、
熱心に見て回りました。
そして、京都を発ち、松山の停車場に着きました。
二人の子どもたちが迎えてくれました。
むすめの富子が着物の袖につかまりましたが、
はっきり見えません。むすこの俊造が手を伸ばしてくるのも
かすんで見えません。
むねがつまり、涙が流れるばかりでした。

 

参考文献
えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 
       我が村(青潮社出版部発行) 
         一粒米(青葉図書発行)
       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)
挿絵:出典
 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2013年12月2日(月曜日)

森盲天外物語10

カテゴリー: - hp-admin @ 09時54分04秒

 

連載 

森盲天外物語10 

−左目にこいくもりが−

 

明治27年日清戦争が始まりました。

明治天皇が戦いの指図をするために、

東京から広島に移られました。

愛媛県から県議会の代表として

白川議長と森恒太郎議員が、広島の松原停車場で

明治天皇をお迎えしました。

その夜、広島の旅館に二人は泊まりました。

よく朝、恒太郎が寝床を立って外を見ると、

左目にこいくもりがかかって見えません。

こんなことは、初めてです。目をこすりましたが、

かすみの中にいるようです。医者の手当てを受けるため、

急いで松山に帰ってきました。

医者に診てもらうと「一刻も早く東京に行って、

早く手当をするより外にない」と言われました。

妻の信と共に支度をととのえました。

「たとえ左目が見えなくなっても右目があると

いくらか安心しましたが、右の目も見えなくなるかもしれない。」と、

胸をしめつけられるような思いでした。

帝国大学の河本博士に診てもらいました。

「これは、網膜出血です。今のところ右の目にまでおよぶことは

ないでしょう。しばらくし入院してもらって、

治療することにしましょう。」と言われました。

この目を治療することは苦しいことでしたが、

治したい気持ちがいっぱいで、がんばりました。

二百日あまりの歳月がたったころ、

ぼうっとした中に少し物が見えるようになり、

指が1本、2本と数えられだしました。

とてもうれしかったのですが、喜んだのもつかの間で、

また悪くなって物が見えなくなってしまいました。

 

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参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 

         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)



2013年11月14日(木曜日)

森盲天外物語9

カテゴリー: - hp-admin @ 15時48分53秒

連載 

森盲天外物語9 

−文字を書く−

 恒太郎は、字を書くのが上手で、7才の時に、八幡神社の

のぼりを大きな筆で書いたこともありました。

目が見えなくなってからも、筆を使って、力のこもった

りっぱな字を書き残しています。

目が見えなくなってから大きな字を書くときは、たすきをかけて

人に着物の両袖を後ろに持ち上げてもらい、

初めの筆を降ろすところを教えてもらって、さらさらと書きました。

昭和52年の夏、県立美術館で「森盲天外展」がありました。

多くの人々はその力強い気品のある書を通じて、

すばらしい業績をしのびました。

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 余土小学校校長室にも森盲天外の書があります

 

 

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道は目に見え耳に聞こえるもの

ではないが故に、よりいっそう

自戒し、謹慎しなければならない。

とくおきてきたり てまりの つきあいびと

参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 

         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2013年11月13日(水曜日)

森盲天外物語8

カテゴリー: - hp-admin @ 11時47分02秒

連載 

森盲天外物語8 

−俳句をつくる−

 恒太郎は、政治に力をつくしたり、会社を作ったりする一方で、

俳句にもすぐれていました。明治26年8月恒太郎は、

「はせを影(ばしょうかぜ)」という俳句の雑誌を出しています。

その中で、恒太郎は三樹堂孤鶴(さんじゅどうこかく)と名のり、

俳句やその考えを載せています。

その後、正岡子規について学び、

「天外」という俳句の号をつけてもらいました。

後に、目が見えなくなって「盲天外」と名乗りました。

次のような俳句をつくっています。

 

 夕晴れの鮎落ちつるらん石手川

 伊予と申す国あたたかいいで湯わく

 

 明治35年に東京の根岸で病気のため養生をしていた

正岡子規を見舞いました。

その後、子規がなくなったのを大変悲しみ、

 

 君逝いてわれ三年の花を見ず

 

という俳句をつくりました。

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「はせを影」の表紙

 

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君逝いてわれ三年の花を見ず

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参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 

         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2013年11月5日(火曜日)

森盲天外物語7

カテゴリー: - hp-admin @ 17時01分08秒

連載

森盲天外物語7

政治に乗り出す

明治22年2月、日本の国を治める大本になる

憲法が出来ました。

日本も世界の国の中で、

新しく進んだ国の仲間入りが出来ることになったのです。

恒太郎は、同じ考えの小林信近らと、

愛媛県で「立憲改進党」という政治のグループをつくりました。

また、人々に政治についての考えを伝えるために、

予讃新報という新聞もつくりました。

 よく年の明治23年には、県議会議員に当選し、

25年には県議会常置委員になり、保健衛生や

林業などの大切な仕事に力を入れました。

 

 恒太郎は、政治に力をつくしたり、

会社を数々作るなどの働きの一方、

俳句や書道にもすぐれていました。

参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 

         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2013年11月1日(金曜日)

森盲天外物語6

カテゴリー: - hp-admin @ 08時49分39秒

連載 森盲天外物語 6

青年期編 

− 余戸村の発展を願って立ち上がる −

大洪水の被害から余戸村を立て直すには、

青年たちの力を集めて立ち上がらなければと考えました。

余戸村を発展させるには、農家のくらしを良くしたり、

農業に新しい工夫をしたりしなければなりません。

明治20年(1887年)の1月、「余戸農談会」という

グループを作りました。この会を何回も開き、

村の発展についていろいろと意見を出し合い、

熱心に研究しました。余戸村としては、

初めて米の品評会を開き、立派な米を作った農家には

賞品を出し、米作りの改善に取り組みました。

この余戸農談会のすばらしい働きに、

よその村も感心するようになりました。

松山を中心に6つの郡で農会が作られ、

やがて愛媛県の各郡市に農会がつくられました。

恒太郎は、余戸村の議員に選ばれて、伊予郡の

町村連合会・学事会でも活躍しました。

次第に、政治についての考えが深まり

働きがいのあることを知るようになりました。

明治22年4月、町や村のきまりが変わり、

余戸村は、市坪村・保免村とあわされて余土村となりました。

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参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 

         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)


2013年10月28日(月曜日)

森盲天外物語5

カテゴリー: - hp-admin @ 17時28分18秒

連載 森盲天外物語5

青年期編

− 村のために働く −

庭にとび下りた恒太郎は、「岩さん、鶴吉、庭の米を積み直すのはやめなさい。

白米一俵を床の上に、井戸の水を2、3日分、たき木も

4、5日分上へあげなさい。」と言って、

3、4日暮らすのにこまらないように準備させました。

それが終わった頃、見る見るうちに水かさがましてきました。

よく朝になって、雨もやみ、大洪水の水も少しずつへり始めました。

余戸村では石手川の土手が4カ所切れ、

上流の石井村和泉でも400mにわたって土手が大きくこわされました。

県では、とりあえず、400mにわたってこわれている

和泉の土手のかり止め工事をすることになりました。

しかし、そうすると石手川の水は、余土村のこわれている4カ所から

どっと村に水が流れ込んで来ることになります。

そこで、余土村の側でも同時にかり止めの

工事をするよう県に要求することにしました。

県にお願いする人たちが選ばれ、その中に恒太郎も加わりました。

熱心に県にお願いしたので、

和泉と余戸の工事を同時にすることになりました。

これが、村のために働いた恒太郎の最初の仕事でした。

参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 

         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)


2013年10月18日(金曜日)

森盲天外物語4

カテゴリー: - hp-admin @ 14時29分25秒

連載

森盲天外物語第4回

 

少年期編

−恒太郎東京に行く、そして帰郷・・・−

 

その頃、北予中学校から東京に行き、勉強をしていた者は

20名あまりいました。

恒太郎が東京に行ったのは、明治13年でした。

16才の恒太郎は、中村正直先生の学問塾「同人社」で

学ぶことになりました。

中村先生は中国、西洋の新しい学問を身に付けており、

キリスト教の教えを信仰している大変優れた学者でした。

「西国立志編」など西洋の学問の書を

日本人にも読めるように、日本語に翻訳して、出版していました。

中村先生に出会い、その教えを受けたことが、

恒太郎にとって、将来の大きな力となりました。

 

東京に出て、5年がたった明治19年、

余土村に帰ってきた恒太郎は22才になっていました。

 その年の9月に大きな台風がやってきました。

何日も雨が降り、石手川には大水のうずが巻き、

気味悪い音が響いてきました。恒太郎は、作男の鶴吉を呼び、

大川の様子を見てくるように頼みました。

鶴吉は、しばらくするとあわてた様子で戻ってきました。

「わかだんな、水が出ていてとても行けません、

道の上を私の腰くらいまで水が流れているのです。」

すると、となりの岩さんが、やぶれるくらい戸をたたきながら、

「土手が切れた、米を始末しなさいよ」と叫びました。

恒太郎は、あわてて庭に飛び出しました。

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参考文献

えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行) 

       我が村(青潮社出版部発行) 

         一粒米(青葉図書発行)

       わたしたちの余土・余土百年のあゆみ(松山市立余土小学校発行)

挿絵:出典

 えひめこどものための伝記第3巻(愛媛県教育会発行)

※ 今回から愛媛県教育会の許諾を得て、

挿絵を使わせていただけることになりました。

ありがとうございます。

 


2013年10月17日(木曜日)

森盲天外物語3

カテゴリー: - hp-admin @ 18時04分40秒

連載 森盲天外物語第3回

少年期編

−新しい時代に学ぶ−

そのころ、余戸には、松山藩で教えていた横田万次郎先生が、

寺子屋を開いていました。

恒太郎もそこで、習字や本を読むことを学びました。

明治5年、日本の子どもたちが学校で勉強するきまりができました。

余戸にも明治6年に「曙小学校」という学校が建てられました。

村の子どもたちは、男子も女子もそこ通って勉強しました。

恒太郎も友だちといっしょに学びました。

2年間、曙小学校で学んだ後、二番町にあった勝山小学校に

通うことになりました。その小学校は、もと武士であった家の子が

多く学んでいました。余戸から5キロの道のりを

雨の日も風の日も通いました。ここで、2年間勉強した後、

明治10年に愛媛県変則中学北予学校に入学しました。

この北予学校に、恒太郎は友だちの森忠太郎といっしょに入学しました。

14才の恒太郎は、豊かな知恵といろいろなことを感じとる

心の強い少年でした。東京から来られていた草間先生の教えに

耳をかたむけ、熱心に勉強をしました。

ところが、草間先生が、明治12年に東京に

帰られることになりました。生徒たちも松山の人たちも別れを惜しみました。

何と、明治13年、草間先生を追うように、

恒太郎も東京に行って学ぶことになりました。


2013年10月16日(水曜日)

森盲天外物語2

カテゴリー: - hp-admin @ 17時06分50秒

連載 森盲天外(森恒太郎)物語第2回

少年期編 

−義農作兵衛と出会う−

 父親が亡くなり、困っていた母クラでしたが、クラはしっかり者で、

恒太郎を育てるために一生けんめいに働きました。

また、少年恒太郎をおじの森源六が引き受けて、しょう屋としての在り方を導きました。

恒太郎が、後に余土村や愛媛県のために大きな働きをするもとを育てたのは、

この源六おじさんでした。

 しょう屋としての仕事があるときには、おじは恒太郎の手を引き、

話し合いの場に連れて行きました。その途中で、村のことについて話を聞かせました。

ある時、おじは恒太郎を大きな一本の松の木の下の「義農之墓」と書かれた所に

連れて行きました。「おじさん、この墓は誰の墓ですか。」「これは今から140年前に、

ききんになり食べ物がなくなり、多くの人が飢え死にしそうになった時に、

生き残っていたお百姓さんが、今年の麦だね一粒は、来年の一万粒になる。

この麦だねを今食べてしばらくの間命をつなぐよりも、わしが死んでこれを守れば、

来年は数百人の命を救うことができる。種を守らねばと言って、

一袋の麦だねを残して亡くなった作兵衛さんのお墓だよ。

後世の人々が、立派なお百姓のお手本だとたっとび、

「義農之墓」を立てたんだ。」と話してくれました。

この話は、その後いつまでも恒太郎の心に強く残りました。


2013年10月15日(火曜日)

森盲天外物語1

カテゴリー: - hp-admin @ 16時54分24秒

連載開始 森盲天外 (森恒太郎)物語第1回

 −少年期編−

 

 校庭の南側に一粒米の碑がある。そこに書かれている「一粒米の精神」、

本校が一番大切にしている心である。

ところが、その「一粒米の精神」を残した森盲天外(森恒太郎)さんのことを

知らない余土の人々が増えていると聞きます。

今、4年生が森盲天外さんのことについて学習を進めています。

そこで、森盲天外物語を連載(記事が少ない時に載せます)し、余土小の保護者の皆さんや

地域の方に森盲天外さんのことを知っていただこうと思います。

まず、少年期について連載していきます。

 参考文献  愛媛県教育会発行 「愛媛子どものための伝記 第三巻」

余土小学校発行 「わたしたちの余土」

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 校庭の南側にある「一粒米の碑」の碑文、読まれたことありますか。

左の「学校紹介」の「一粒米の碑文」のところをクリックしてみてください。

 

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 温泉郡余土村(現在の松山市)に森盲天外という村長が

いました。この人は、目が見えませんでしたが、余土村を

他の村や町のお手本になるようなりっぱな村にしました。

余土公民館には、森盲天外が村づくりにつくされた

記念の品が大切に保存されています。

 本名は、森恒太郎といい「天外」というのは、俳句の先生

だった正岡子規につけてもらった号です。後に、目が見え

なくなってから自分で「天外」と呼んだのです。

「盲」は目が見えないという意味です。

 では、森恒太郎さんは、どんな少年だったのでしょう。

 少年期編 

−森恒太郎(森盲天外)生まれる−

 

 森恒太郎さんの父親は、謙蔵さんです。西余土村のしょう屋でした。

お母さんはクラさんと言って松山藩の武士の家に生まれた人でした。

恒太郎は、1864年8月13日に森家の長男として生まれました。

恒太郎が生まれた年、父謙蔵は温泉郡にあった34の村の中で

3人いた大じよう屋の一人に選ばれました。

 そのため、恒太郎は3ヶ月で、何と西余土村のしょう屋になりました。

生まれたばかりの赤ん坊が名前だけのしょう屋になったのです。

実際には、村の大事な仕事は、全て父が代わってしていました。

 ところが、6才になった1870年(明治3年)に

父謙蔵が39才の若さでなくなったのです。

母のクラは32才、恒太郎をかかえて、どうしてよいか大変こまりました。


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